【拡散希望】「面会交流は別居親の権利」と示す判例一覧

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面会交流立法不作為訴訟が起こされている(2018年3月8日提訴 東京地裁)
原告の数は14名、被告は国である。

原告は、「面会交流は親の持つ権利であり、離婚や別居で面会交流の機会を確保するための立法措置が講じられていないのは違憲」と主張する。*1審敗訴(2019年11月22日)・現在控訴中(東京高裁)

学説は、「親が子と面接を含む一切の交渉をすることは、監護する機会を与えられない親としての最低限の要求であり、親の愛情、親子の関係を事実上保障する最後のきずな」と説く。

東京地裁(1審)は、この当たり前とも思える学説を採用せず、「こういうことを主張する学者もいる」で終わらせ、面会交流権が親の権利であることを認めなかった。

しかし、東京家決昭和39年12月14日(家月17巻4号55頁)で認められて以降、別居親の面会交流の権利性を肯定する判例が多くある(参考文献)。

(1)東京高決昭和42年8月14日(家月20巻3号64頁)
(2)大阪家審昭和43年5月28日(家月20巻10号68頁)
(3)東京家審昭和44年5月22日(家月22巻3号77頁)
(4)大分家中津支部審昭和51年7月22日(家月29巻2号108頁)
(5)浦和家審昭和57年4月2日(家月35巻8号108頁)
(6)東京家審昭和62年3月31日(家月39巻6号58頁)
(7)千葉家審平成1年8月14日(家月42巻8号68頁)
(8)岡山家審平成2年12月3日(家月43巻10号38頁)
(9)大阪家審平成5年12月22日(家月47巻4号45頁)
(10)福岡高決平成11年10月26日(民集54巻5号1607頁)
最高裁のものとして、
(11)最二小決昭和59年7月6日(家月37巻5号35頁)
(12)最一小決平成12年5月1日(民集54巻5号1607頁)

50年以上も前から、面会交流権は、別居親の権利であると明確に判示されていたのである。

現実はどうだろうか?

裁判所は「双方主張の相違が大きく、任意での面会交流を履行するには限界がある」として面会交流の実現を見送った(詳細は下記画像をクリック)

本来、面会交流権は別居親の権利であるのに、この事例では別居親は泣き寝入りするしかなかった。権利であっても、同居親がごねたら現実には面会交流は実行できないのである。裁判所が認定している別居親の権利より、同居親の心情が優先するのが実態である。同居親の心情なんて他人には把握できないし、ここに子どもの意思は全く反映されていない。子どもにとっても、別居親に会いたいという自分の感情は表に出せず、泣き寝入りである(札幌高裁の出した判決「子どもの意思表示を認めなかった日本の司法」を参照)。会いたくても実の親に会わせないという最大の児童虐待である

実態は、子どもに会えるかどうかは、まさに同居親の気持ちひとつである。虚偽のDVを適用して、「面会交流を禁止すべき」などと主張する不届き弁護士も存在する。この弁護士は、東京高裁・最高裁で敗訴し、国会でも追及され、月刊誌で実名を報道されている(上記サイトで証拠・実名を公開)。

間接交流(子どもの写真を見せるだけ等)で終わらせたり、DVの証拠を作成し、子どもと共に逃げなさいと指南する弁護士(国会追及・実名報道)がいたり、このような例が日本全国あとを絶たない。子どもと会えないことを苦に自死されたりする別居親も大勢いらっしゃる。このようなことが許されていいのだろうか?

一般の方は、このような親子断絶の実態をご存じだろうか?

明確に権利であるのに面会交流が実行できないのは、担保する法律がないからだ との原告の主張 – つまり、原告が面会交流に関して立法不作為と言うのは当然である。

立法化されていないから、「双方主張の相違が大きく。。。(下記証拠写真)」となり、面会交流できない逃げ道を作っている。裁判所があるから合法的に子どもと会えなくなると以前聞いたことがある。これが裁判所の実態である。
別居親に会いたいと思っていても、同居親の手前、その気持ちを表現できない子どもが多数存在するのは否定できないだろう。
この子どもの心情に、裁判所はどう対応するのだろうか?

子ども連れ去りに関して、日本の司法は海外からも強い非難にさらされている。
東京高裁は、どのような結論をだすのだろうか。

双方主張の違いが大きいという理由で、面会交流しない家裁調査官の詭弁。結局、相手方がゴネタラ面会交流はできないという証拠

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